三木市は毎年11月に『金物まつり』が開催されるほど、金物の町として知られています。
どのようにして三木市が金物の町となったのか掘り下げていきたいと思います!
きっかけになった三木合戦
三木市が全国屈指の金物のまちとして栄えるきっかけとなったのは、天正6年(1578年)、羽柴秀吉の三木城攻めだといわれています。

👆三木城跡:別所長治公像
三木合戦とも知られているこの戦いは、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦です。
織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、当初は織田氏、西の大国であった毛利氏、東播磨一帯に影響力を持っていた別所氏は友好関係を保っていました。
しかし、信長に京都から追放された足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により毛利氏が反織田勢力となり、毛利方からの積極的な働きかけもあったとされているが、織田方への反感から、別所氏当主別所長治が毛利氏の勢力側につくことを決定しました。
別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、支援し、情勢が一変します。
別所長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始されます。
これに対し、秀吉は兵糧攻めの作戦にでました。
天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始し、戦いが続く中で毛利氏からの支援が不可能な状況になってしまいます。
天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき、別所氏は「自らの命と引き換えに兵は助けてくれ」と秀吉に願い出たといわれています。
そして17日に長治一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了しました。

👆三木城跡:三木城本丸跡
別所長治は最後にこのような言葉を残しています。

👆三木城跡:三木丈寿別所長治公辞世の碑
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかわる 我が身と思えば」
訳「今となっては誰を恨むこともない。私の命が城兵たちの命の身代わりになると思えば」
そんな別所長治の戦いは今でも三木市で語り継がれ、別所長治にちなんだ長治煎餅というお菓子も販売されています。

👆別所長治公にちなんで作られた長治煎餅
とてもシンプルで美味しいお煎餅です😊✨
復興の鍵となった鍛冶道具
秀吉は焼け野原となった三木の町の復興を考え、免税政策をとって四方に散らばった人びとの呼び戻しを図りました。
復興のために集まった大工職人、その道具を作る鍛冶職人が次第に増え、三木の町も活気づいていったといわれています。
復興が一段落すると、大工の仕事がなくなり、大工職人たちはやむなく京都、大阪、丹波、但馬へ出稼ぎに行くようになりました。
そのときに大工が持参した道具の素晴らしさが評判になり、次に行く時には品物をもって売りさばくようにもなりました。
こうして鍛冶の里三木としての地盤を固めていき、
全国を股にかける三木金物卸商のきっかけにもなりました。
そして現在に至るまで、伝統の技を基礎として多くの優れた金物が開発・生産され続けています。
三木金物製品のうち、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鏝(こて)、小刀(こがたな)の5品目が国の伝統的工芸品に指定されています。

👆道の駅みき2階:『金物展示即売館』
三木金物は「道の駅みき」2階の『金物展示即売館』などで販売されています。
(三木市福井2426番地先)

👆金物展示即売館の陳列棚
三木の素晴らしいメーカーさんの金物がたくさんあります😊✨
是非お近くに来られた際には立ち寄ってみてくださいね